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昭和四十四年六月一日 特別奉修委員
今朝ほど、久留米の井上さんがお知らせを頂いておるのに、[おどんぶりでご飯を頂いておるところ、それがおさいがこんぶで、というのである。それで矢次さんが、「こぶだけではいかんから、何かおさいを作ってあげましょう。」というてから何かおさいを作って下さったけれど、その木葉形のお皿が二つに割れてしもうた。]というお知らせを頂いておられます。それから誰だったでしょうか、先日は[浅草のりをこう巻いただけでご飯をいただいておる。]というお知らせを頂いた人があった。
色々、どれをとってもおかげでないことはありません。みんなほとぼりをもってするならば、みんなおかげですけれども、おかげの段階というかね。おかげの成長というか。おかげが段々本当の事へ、いわば、神様が喜んで下さるようなおかげに成長していかねばいけない。たとえば、浅草のりといや、苦労ということですから、その一生懸命の苦労、一生懸命の修行、いわば。もう本当に、もう本当に苦しまぎれに信心が出来るといった信心ですかね。私はそういう、それで、まあー、おかげでままにはなっておるけれども一生懸命のその苦労が、修行が、ただ、おかげを頂いておるという・・・・。
次に井上さんが、頂いておられる様に、信心の喜び。ね。信心を頂いておる、ということが、もう取り入れをしておられるとき、そのー麦刈りが始まっておりますから、もうそれこそ、いうならば体がくたくたする程に疲れなければならないはずなのに、もうほんとに元気一杯出てきて帰らせて頂いたら、高校に行っとられる娘さんが掃除も全部してくれ、あれを全部してくれ、みんなが食卓を囲ましてもらってから、もう思わず「幸せ!」というたというてからいうておられましたが・・・・。
そういう中に信心を一家中のものが頂いておるおかげでね。このような幸せを感ずることが出来る。「あー今日もきつかった。きつかった。」というのだけれども。実際はきつかった、そういう御用を頂いておっても、おかげで疲れもみずにおかげを頂いておると。帰ってくりゃ、娘がちゃんとこうしてくれておると。もうこんな幸せは他にあろうかと、もうこんな幸せはまたとあろうか、というような幸せの中に、あのー、おかげを頂いておられます。やっぱりおかげですよね。一生懸命のほんとに歯を食いしばっての修行。やっぱりそこも苦しいときにゃ一生懸命修行なっとしょらなやりきれない。それでようやくままになっておるおかげ。信心の、そして、喜びが、ままになっておるおかげ。けれども神様がね、もっともっといっちょ上、もっともっと本当のおかげを下さろうとしておるわけですよね。それはいつも頂くように神様も喜び、神も喜び、氏子も喜びという喜び。